葉山を継ぐStory
渋沢栄一別邸から御用邸まで 奉公の思い出
行谷 マキさん
葉山町一色・大正7年生まれ
上山口の農家に生まれ育った行谷マキさんは、ご結婚後に移り住んだ一色でも畑で季節の野菜を育ててきました。3、4年前までご自身で種採りから収穫まで行ったそうですが、現在は息子さんが畑に立ち、マキさんは「監督」。畑に椅子を出して腰掛け、アドバイスや声かけをしているそうです。青菜は胡麻和えや白和えに、里芋はけんちん汁に。大根は毎年、たくわん用に20〜30本育てました。小豆から餡子を作って、息子さんが好きなお団子にしたことも。インタビューには娘さん(長女・美代子さん)にも同席いただき、思い出を語って頂きました。
上山口での子ども時代
上山口の農家だった両親は、田んぼや畑をやっていました。子どもの頃、農作業の手伝いはせず、畑仕事のある両親のためにお茶を沸かしていたのを覚えています。燃し木を使って、カマドでご飯を炊くお手伝いもしていました。お父さんがとにかく厳しくて、履物を揃えなかったり、茶碗を洗い終えずに横になったりすると、よく叱られました。
関東大震災の日をよく覚えています。5歳でした。お昼を食べていたら、おじさんに「マキ!外に出ろ!」と言われて、慌てて飛び出しました。4日ほど、庭にカヤを張って寝起きしました。
奉公先の思い出
私は男一人、女七人の八人きょうだいの六番目です。学校を卒業するとお姉さんたちはみんな奉公へ出ました。私も20歳くらいからお宮(森山神社)の向こうの渋沢栄一さんが避暑に来られる別荘へ1ヶ月ほどお手伝いに行きました。昔は、奉公先で掃除や台所のことを覚えてお嫁に行ったものでした。でも、私は奉公へ出る前から、魚を捌いてツミレにしたり、台所のことは色々と出来ました。東京へ奉公に出ていたこともありましたね。
一番面白かったのは、御用邸の料理の手伝いです。御用邸では、天皇陛下のお料理を作る専門の係は別にいて、それ以外のお料理を私たちが手伝いました。魚竹さんが取り仕切って、板前さんがいて、お料理を盛りつけたり配膳したり、お漬物を作ったりもしました。当時、御用邸のお料理に使われた野菜は「八百藤」さん、海産物は堀内の「魚忠」さんでした。
戦後の暮らし
戦後、縁あって結ばれたご主人と一色へ。お米が不足して、主人と二人でお米を買うために、山形や秋田へ二度行きました。横須賀駅で切符を買って行きましたね。電車がすごく混んでいました。昭和20年代だったでしょうか。近所の玉蔵院さんの茅葺き屋根を葺き替えるとき、檀家さんみんなで長柄の茅場まで、モンペ姿で背板を背負って山越えして採りに行ったのを覚えています。姉も一緒でした。カヤを2把くらい。とにかく重たくて遠くて、大変でした。カヤは長いでしょう?狭い山道を通れずに苦労しながら、一日かけて、やっと持って帰ってきたのを覚えています。
一色へ来てから、ヨモギの若芽を摘んで草餅を作るようになりました。夏みかんでママレードも作りました。皮を薄くむいて、切って、さんざん茹でてお砂糖とみりんを入れて。バターと一緒にトーストに塗って食べました。一色のローゼンの先には山水が流れる地区があって、セリが自生しています。そのセリを胡麻和えやお浸しにしましたね。ドクダミ茶が流行ったときには、近所でドクダミを摘んで、カラカラになるまで陰干しして、麦茶とあわせて夏に飲みました。
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