葉山を継ぐStory

海辺の別荘地、葉山森戸海岸の暮らしの風景

鈴木和子さん

葉山町堀内・昭和15年生まれ

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photo by志津野雷

今も大切に飾っている手づくりのお雛様を手に思い出を語る鈴木和子さん。

 四姉妹の末っ子として堀内で生まれ育った鈴木和子さん。高校卒業後、農協勤めを経て、森戸海岸近くに喫茶店を開きました。お母様の介護を機にスナック・カラオケ店に切り替えて足かけ19年営業。現在、お店は別のオーナーへと受け継がれ、「カフェNagisa」として営まれています。森戸海岸の思い出、戦後、懸命に生きた葉山の人々の様子をお話くださいました。

森戸海岸の夏

 御用邸造成から政財界や文人の別荘地として知られるようになった葉山ですが、戦後は避暑地として多くの人で賑わいました。中華料理「海狼」(閉業)の前身となった割烹旅館「かぎ家(明治27年創業)」が近隣にあり、昭和30年頃になると大勢の海水浴客で森戸沖の名島が揺れて動いて見えたほどの人混みでした。

子どもの頃のお手伝い

 春になると、潮が引いた時に森戸川の河口近くの磯でアサリ掘りをしました。岩がごろごろ転がっていて、ゴンズイに刺されたこともあります。ワカメを拾って家に持ち帰ると、アサリやワカメを母がお味噌汁にしてくれて。ワカメはワケギと一緒におヌタにもしてくれましたね。母は私が作るワカメの三杯酢がいちばん美味しいと言ってくれて、夏になるとよくお手伝いでお酢の物を作りました。
 夕方、漁師さんたちが漁から森戸海岸へ戻ってくるのだけど、そこへ子どもたちが竹ザルを持ってお使いに行くんです。他の子どもたちや大人たちみんなで船揚げを手伝うんだけど、それが楽しくてね。鯵を買って帰ることが多かったかしら。お刺身にしたり、紫蘇の葉と一緒にたたきにして。本当に美味しかった。薪拾いはしたことはないけれど、薪割りはしていましたね。毎朝、姉たちと交代でカマドに薪をくべてお米を炊くお手伝いをしました。お当番の朝は、6時くらいだったかしら、早起きしてね。すぐ上の姉が7歳上だったから姉たちは上手でね、おこげを作るのは私でした。

子どもの頃のおやつ

 春先、若い芽が出る頃のヨモギを森戸神社の参道脇、川沿いの散歩道で摘んでいくと母がお餅にしてくれました。テングサを拾って帰ると母が寒天にしてくれました。貴重だった缶詰のみかんシロップをかけてゼリーのようにしてくれて美味しかったです。秋には、サツマイモの粉を団子にして蒸したものをおやつにしていました。真っ黒い団子でした。サツマイモを蒸して薄く切って干していたのを覚えているので、挽いて粉にしていたのかもしれません。私はあまり好きではなかったけれど、漁師さんの家の友達は「いつも茹でたタコの足がおやつだから」って羨ましがっていました。あるとき、新聞紙にくるんだ脱脂粉乳が配給されたんです。家に帰ってまでこんなのものを食べるの?って嫌だったのだけれど、母が小麦粉に脱脂粉乳を入れて棒状にして輪にしてドーナツにしてくれたの。それはもう本当に美味しくて!ちょっと甘味があってね。いまだに母のドーナツが一番美味しかったなと思います。

戦中、戦後の葉山の暮らし

 父は戦地でマラリアに罹って帰還後に一時回復したものの、そのまま自宅で亡くなりました。父が帰還した日のことを今でもよく覚えています。私が大好きだったグレーとピンクの縞のセルの着物を着ていたから……寒い夜だったかと思います。貧しかった当時、ご近所の家でお風呂を分けてもらっていたのですが、そこへ母が行っている間に父が帰ってきて、5歳だった私はびっくりしました。父は軍服姿で帽子をかぶり、足にゲートルを巻いていました。少し痩せて顔色がすぐれませんでしたが、私を膝に抱いてくれたのを覚えています。     
 父の病状が悪くなると、「金魚の肝が効く」と聞いてきた母がご近所で金魚を5匹くらいわけてもらって来ました。金魚を捌いてオブラートに包んで飲ませましたが、父は亡くなりました。オブラートに金魚を包んでいる母の姿を今も覚えています。残った2匹の金魚を姉と私でお返しに行った帰り道、近所の人に声をかけていただいた時、姉がわーっと泣いたのを見て、父が亡くなったんだなと実感しました。お葬式には大勢の人が来て下さって、私は嬉しくて飛び跳ねていました。当時はまだ土葬でした。
 戦後、葉山の元町商店街は「未亡人通り」と呼ばれました。永楽家さんも菊水亭さんも
 みんな戦争未亡人ばかりでした。母は戦中から、当時、葉山に疎開中だった新橋芸者さん向けの着物の仕立てや洗い張り、縫い直しをして私たちを育ててくれました。母の着物は着やすいと評判でした。母が亡くなる直前に、当時からずっとお付き合いのあった芸者さんの一人がひょっこり訪ねてこられました。小鼓の名人で綺麗な芸者さんでした。千代紙で手作りした綺麗なお雛様をくださって。屏風はお菓子の箱か何かで作っていて、チョコレートの銀紙だとかも使っているんじゃないかしら。私は末っ子だから初めての自分のお雛様で本当に嬉しかった。宝物なの。今も大切に、毎年、飾っています。
 戦後、母は企業の保養所(海の家)で働いたほか、外国人の家庭のお手伝いさんとしても働きました。その影響か母はパン好きで、お砂糖が手に入ると葉山の夏みかんの実を食べたあと、残りの皮をきれいに洗って、実もちょっと加えてママレードを作ってくれたの。傷んでしまった苺なんかも煮てね。朝食はいつも食パンのトーストとジャムにお茶だったかしら。そうやって手間をかけないと食べられない時代でした。
 私が高校卒業後、昭和37-38年頃だったかしら。農協に勤めていたのですが、近くにお弁当屋さんもやっているお魚屋さんがあってね。お昼休憩になると、そこへお弁当を頼んでいました。このお魚屋さんが面白くて、お金がなくなるとセリがメインのおかずに入っているの。「おじさん、どこで採ったの?」って効くと、「裏の小川」って。みんなで「魚長さん、お金ないんだね」って話していたの(笑)。戦後の貧しい頃でしたが、どこか人の温もりを感じる時代でしたね。

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