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葉山を継ぐStory

山のことは何でも知っていた 長柄の腕白少年

高梨 雅宏さん

葉山町長柄字大山・昭和16年生まれ

高梨雅宏さん.JPG

photo by志津野雷

「生まれてから一度も他所で暮らしたことがない」と笑う高梨さん。少年時代、山のことなら何だって知っていたと振り返ります。今も地域で愛される長柄の御霊神社にて。

葉山の山間部にある長柄字大山は、古くから農業や林業に携わる家々が多いエリアです。大山生まれ大山育ちの高梨さんに「庭のように駆けずり回っていた」という山のことや腕白少年たちの小遣い稼ぎや遊びまで、当時の暮らしをたっぷり伺いました。

茅葺きの家

 昭和40年頃の改築まで、茅葺きの家に暮らしました。釘を一つも使っていませんでしたね。江戸幕末の頃に、飛騨高山から大工を呼んで建てたとばあさんから聞きました。屋根裏に5尺×5尺ほどの土壁の部屋があってね。何かあった時の非常食料などが入れてあった屋根裏から日本刀が出てきたことがあって、折って鉈(なた)として山仕事に使いましたね。茅葺きの手入れは、20−30軒で組合を作って、阿部倉山の上のほうに茅場を共同保有して、協力して手入れを行いました。昭和30年代頃までは茅場があったかな。茅葺きの家は、夏は涼しいですよ。茅の屋根は厚さが30cmはあったから陽射しの熱を通さない。茅はいわゆるススキ。麦わらを使った屋根もあったと記憶しています。茅葺き職人は地元にもいて、少しずつ部分的に茅の手入れをしていました。一度の手入れで、茅場の半分以上の茅を使うので、うちの茅葺きを全て直すとしたら、2トントラックで10台分以上の茅が必要だったと思います。囲炉裏の煙は茅葺き屋根の虫除けにもなっていましたが、昔は囲炉裏に火を入れると習性なのか猪が火をめがけて飛び込んできたものでした。だから、昔の家には猪避けの猪戸(ししど)という格子戸がありましたね。
 家の垣根には茶の木が植えてあってね。5−6月頃、葉を摘んで囲炉裏の上にトタンと和紙を板状に敷いて、その上で何時間もかけてじんわり蒸し上げながら、手で揉んでお茶を作ったものでした。手が真っ黒になりました。

里山の暮らし

 当時は大山の子どもたちも葉山小学校へ通いました。長柄橋をまわるより大山を越えて行ったほうがずっと近道でね。小学校5-6年の頃だったかな。朝、そーっとカマを持って出て通学路の途中に隠しておいて。放課後、5-6人くらいで役場の方から山へ入って、獣道を拓きながら大山の東斜面を降りて帰っていました。近道だし、遊び半分にやっていたかな。邪魔なヤブをカマで払いながら、少しずつ何日もかかって道を作りましたね。
 休みの日は、親父と一緒に鰻の「かいぼり」もやりました。川を堰き止めて、水を他のところへ流して抜いてしまって追い込むように獲ります。大きいバケツに2杯は獲れたかな。家に帰ってたらいにあけ、半日捌き続けても捌ききれない!って、残りは川に戻したものでした。山に入るとそこらへんにたくさん生えているエノキ。あの柔らかな実を砕いて灰を混ぜ、水で溶いて川の水面に撒くと、エラが詰まるのか苦しいのか、鰻が顔を出します。そこを捕まえたりもしましたね。お母さんが捌いてくれて、蒲焼きにして食べました。

​ うちは兼業農家で米は7−8俵は作っていたかな。畑では、大根、人参、ごぼう、生姜、里芋、さつまいも、胡麻……野菜全般を育てていました。畑の畔に生えているノビルも酢味噌あえにしたりしました。昔はあの丸い根っこの部分が一円玉大くらいはあったけれど、その頃と比べると今は小さくなったね。

 両親は教員をしていたから昼間は家にばあさんしかいなくてね。5人兄弟で男は僕一人だったから、力仕事を手伝うことが多かった。稲の刈り入れとか、山から焚き木をとってくるのは結構やったね。長柄の杉は「三浦半島一」って言われていた当時、山道に雑木の小さな丸太を敷いて、その上に油を塗って上にソリを滑らせるようにして木を運び出していたのを覚えています。僕ら子どもたちが山に入ると、不要な枝や杉っ葉をいくらでももらえたので、リヤカーに積んで山を降りました。
 神棚にお供えするサカキは今でも大山から採っていますよ。知り合いも毎月1日に採りに行く人がいるけど、僕なんかは適当で。サカキは山に行けばいくらでもあるのでね。うちは昔から稲があったから、輪飾りやしめ縄、門松など正月飾りもすべて手作りでした。暮れの27−28日くらいからお座敷にゴザを敷いて車座になって作りましたね。
 正月の雑煮づくりも年男の仕事でした。欅の神棚にお祀りしている神様や井戸にもお雑煮をあげていました。雑煮の出汁は鶏。里芋、大根、椎茸、こんにゃくなど入れたね。このあたりでは椎茸やこんにゃく芋も育てていました。こんにゃく芋は育つのが遅いので、1−2年かけて大きくしました。灰汁をとるのに灰を使って大変な作業だったのを覚えています。

 

腕白少年たちの小遣い稼ぎ

 9−10月と2月は、子どもたちで山芋を掘りに行きました。「つる」と「いも」の間に「ひげ」があって、そこを3cm必ず残して自分が掘った穴のすぐ近くに埋めるんです。最近はそういうことをせずにそっくり獲ってしまうから、なくなってしまいました。山芋がとれると市場に行く農家さんに頼んで100円、200円で買ってもらったものです。当時、雑誌が80円くらいだったから、小学生にとっては結構なお小遣いになりました。秋に山芋を掘りきれなかったときは、麦粒を近くに蒔いておく。すると麦が2月頃に芽を出すでしょう?山芋がある目印になる。山芋は秋になると「はねあがっちゃう」(蔓と芋が離れてしまう)。つまり、蔓があっても芋がないという状態になる。だから、麦粒を蒔いて目印をするんです。昔はどこの家でも麦を育てて、地域で共同の精米所や粉挽き場を持っていたからね。山芋は柔らかい土と岩の多い土とで形が違います。柔らかい土の芋はきれいだけど、岩の多い土の芋は複雑な形になる。でも、岩の多いところで育った芋は粘りがあって旨かったんじゃないかな。とろろ飯にして食べました。山芋は茹でても百合根のように甘くて美味しかったですね。百合根掘り??6−7月に掘りましたね。本当は冬が良いのだろうけど、花が咲いた後だとわかりやすいからね。子どもたちが掘って、持ち帰って食べさせてもらっていましたね。昔は山に入ると必ず蔓刈りをしましたね。「その場にあるものを使う」わけですが、一番使いやすいのが藤。強くて真っ直ぐな部分が長く採れるから使いやすかった。太い蔓は鉈やカマで割いて使いました。道具の使い方はみんな自分たちで覚えましたね。山芋掘りに行って籠がないような時、笹で芋を包んで藤蔓で括ったりしました。笹の葉をすだれ状に格好良く包みましたね。藤がない時はアケビ蔓を使いましたね。葛は使わなかったなあ。葛ほど使えないものはなかった。

長柄っ子の遊び

 子どもの頃、メジロやホオジロを飼うのが流行っていましたが、小鳥を捕まえる遊びも子どもたちに人気でした。細い笹竹(直径2-3cm)を弓状に曲げて弦の部分に藤蔓を張る。藤蔓の両側は竹の両側に10cmほど差し込みます。(藤蔓の端は直角に折ることで固定するため結ぶ必要はない)藤蔓の中央に竹で枠を作って網を張り、中には稲穂をつけた小さな竹筒を固定します。藤蔓は一回転させて捻っておくと、捻った藤蔓が戻る力によって網が落ちる仕掛けになっています。網の真下には小鳥の体がおさまるくらいの穴を掘っておきます。米粒を食べに着た小鳥の上に竹網が落ちて、穴の中に捕獲します。この方法なら見張っておく必要がなく、結構な頻度で捕まえることができました。
 トリモチでもメジロを捕まえましたね。モチノキの枝の皮をむいて、水に晒しながら叩いていくと不要なものが流れて残った部分がネバネバとしてきます。これを巻きつけた笹竹を木と木の枝の間に2−3本渡しておきます。近くに籠に入れた囮のメジロをぶら下げておきます。メジロは縄張り意識の高い生き物だから、縄張りを荒らされたと思って飛んでくる。うっかりトリモチにメジロが止まると重みでくるっと反転してぶら下がります。トリモチがばれないように、メジロが好んで吸う椿の花で覆い隠したりして工夫しましたね。メジロが吊り下がったままにしておくと、重力で少しずつ下がってくる。トリモチとメジロの距離がちょうど良い加減で離れた時にを外します。メジロが暴れてトリモチに羽がついたりすると外すのが大変なのでね。小麦の実を叩いたものでも、トリモチに似たようなものが作れました。モチノキは今でもこのあたりにありますよ。昔はこうやって遊ぶしか、他に何もなかったね。そういう意味でいうと、今の子は可哀想かもしれないね。僕なんか学校卒業するまで勉強なんてしたことがなかった。

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