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葉山を継ぐStory

老舗和菓子店「永楽家」三代目が語る葉山今昔

栁 新一郎 さん

葉山町堀内・昭和15年生まれ

photo by志津野雷

「昭和十年仁木染めもの店」と畳紙に記された藍染半纏が見つかり、以来、栁新一郎さんは白衣の上に防寒着として羽織って店に立つほか、正装着としても愛用しています。

明治期からつづく葉山の老舗和菓子店「永楽家」の三代目、栁新一郎さんは生まれも育ちも葉山堀内。少年時代の思い出から葉山町商工会会長として葉山町の様々な人たちと連携して名産品開発に尽力してこられたご経験をお話くださいました。

永楽家の歴史と回顧録

 1909年(明治42年)、栃木出身の栁榮太郎が修行先の横浜「永楽家」の娘わかさん(新一郎さんの祖母)と結ばれ、当時、御用邸造成で勢いのあった葉山に出店したのが葉山の「永楽家」の始まりです。当初、現在の小峰商店前を折れた山側旧道沿いに店を開いたそうですが、数年後、現在の場所へ移転しました。海上流通が主だった明治期は、小峰商店の裏の高砂まで行って荷物を送り出したようです。小峰商店裏には今もその名残として、佐島石の要塞が残っています。県道も森戸橋もなかった時代は、川沿いにみそぎ橋を渡り、森戸神社の参道脇を抜けて真名瀬へ向かったそうです。森戸神社のみそぎ橋付近には船着場があって、上山口あたりから馬力で運搬した薪を船積みして藤沢橋の問屋街まで運んだと聞きます。現在の森戸橋一帯は明治期に埋め立てられ、地固めするために大勢が集まって盛大な自転車レースイベントが開催されたそうです。

和菓子屋と自生植物

 永楽家では、初代(祖母)が地元のヨモギや桜の葉を和菓子に使っていましたね。春になると午前中に山へ入って、昼までにヨモギを摘んで使っていたのを覚えています。長者ヶ崎を越えると葉山より2週間ほど発芽が早かったかな。京浜団地あたりでも摘んでいましたが、車社会になり排気ガスの影響が出るようになりました。和菓子に使う桜の葉といえば、大島桜。葉山では代替品としてソメイヨシノの葉を摘みました。葉っぱごと食べられる塩漬けには、5月のお節供過ぎから6月くらいまでの葉。以降は葉脈が硬くなって食べられません。きれいな桜の葉を摘めたのは葉山役場に隣接の花の木公園でした。当時はまだ樹齢が若かったので、葉も小さく柔らか。桜の葉を摘む場所には微妙に縄張りがあって、あそこは別の和菓子屋が摘むから入らないようになど暗黙の了解がありました。逗子から葉山まで来ているところもありましたね。

冬の名物 はばのり

 「はばがきく」と言って、小田原にはお正月にハバノリを食べる習慣があります。三浦半島では「夜磯」と言って、寒い時期の夜でないと採れないから葉山あたりでは2月頃に出回ります。逗子の「もりおか」では買えるんじゃないかな。ハバノリはメジナの撒き餌にもなります。独特の風味で、火でさっと炙って、ちぎって醤油をかけてご飯にのせると旨い。

葉山の名品、葉山夏みかんと葉山生姜

 昭和34年に上皇后陛下のご成婚祝いとして苗木が葉山町民に配られ、以来、葉山の冬景色と食卓を彩ってきた夏みかんですが、夏みかんを地場産品にしていこうと、JAと商工会が協働で加工開発に乗り出しました。各所で収穫された夏みかんを集めるのは酒屋が担当するなど、商工会のネットワークで、夏みかんの皮や果汁の商品開発が活発に行われました。夏みかんに続いて、葉山生姜の商品開発も進みました。古くから葉山の長柄生姜は名産品として知られていました。明治期に発刊された逗子葉山のガイドブックには「山城屋」という和菓子屋が掲載されており、名品として「生姜羊羹」の記載があります。葉山野菜の会では、上山口の共同圃場で生姜栽培をスタートしました。「日の出園」が抹茶の製法技術を使って生姜パウダーを開発したことで、生姜が保存可能な素材となりました。生姜の加工品可能性が広がり、多くの商品が生まれました。

子ども時代の遊び

 僕らが子ども時代に流行っていたのは「フンチ」。(小さな箱に2匹の蜘蛛を入れて喧嘩をさせる遊び)豊かな家の子は、当時まだ貴重だったガラス瓶に蜘蛛を入れていました。年長の番長に連れられ、下駄や草履をつっかけてみんなで朝から蜘蛛を捕まえに出かけました。フンチ(蜘蛛)が出るのは春先だったから、途中でさくらんぼや桑の実を食べたりしてね。現在の京浜団地や湘南国際村あたりのフンチは強いと言われて、番長に飴をもらって捕まえに行きました。「大楠の赤っケツ」と言って、大楠のフンチは強くてみんなが欲しがって。当時、京浜団地にはチャノキが多くあって、チャノキの葉の裏にフンチがいることが多かったと思います。葉を裏返して、帽子で受け止めて捕まえていました。

戦中戦後の暮らし

 戦中は和菓子屋は営業しませんでした。配給依頼があるときだけ、祖母と母が和菓子を作りました。店の地下室に小麦粉や砂糖を保管してあったから、戦後もそういった食品には困りませんでした。戦後も燃料は石炭だったので薪拾いはせずに済みました。同級生には薪拾いを手伝う子たちが多かったから、うちは恵まれていたでしょうね。昔は山仕事でも蔓を使ったし、山で薪拾いするたびに蔓刈りもしていた。山は手入れしなくちゃダメだと山番の親父さんに言われて育ちました。

 戦後は、塩が不足したときに海水で味噌汁を作っていました。海岸に海水を汲みにいくのが僕の仕事でした。「男の子だからやってこい」って言われて、きれいな海水を汲むために波打ち際でなく、胸あたりまで海水に浸かって沖へ汲みに行きました。学校の先生も海岸で海水を煮詰めて塩をとっていたから、みんなで先生を「潮汲み」って呼んでいたのがばれちゃったこともありましたね。

 森戸海岸には米軍住宅があって、日本人は立ち入ることができませんでした。でも、番長はアメリカ人が珍しいお菓子を持っていることを知っていてね。番長に連れられて、僕等ちっちゃいのが海水浴中のアメリカ人のところへ集まって行く。すると、飴なんかをバーって砂の上にばら撒くんですよ。甘いものに飢えていたから、「甘い」って記憶がすごく残ってる。コーラももらったことがあって、アメリカ人はこんなにまずいものを飲んでるんだ!ってびっくりしたよ。ガムも食い方がわからないから、そのまま飲んじゃったしね。

一番最初に覚えた英語は、「ギヴミーチョコレート!」「ギヴミーガム!」でした。

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